千歳の闇室に、光もししばらく至れば、明朗なるがごとし 曇鸞 『浄土論註』

令和7年の年明けとなりました。今回の言葉は、曇鸞大師が書かれた『浄土論註』の言葉です。

全文は、
  たとへば千歳の闇室に、光もししばらく至れば、すなはち明朗なるがごとし。
  闇、あに室にあること千歳にして去らじといふことを得んや。
という譬え話です。親鸞聖人も『教行信証』「信巻」において、この言葉を引用されています。

意味は、「千年もの間、暗闇だった部屋に光が差し込めば、たちまちに闇が破られ明るくなります。長年、暗闇だったからと言って、闇がずっと居座って立ち去らないことがありましょうか」ということです。

この譬えで曇鸞大師は、闇室を罪悪深重の私たちに例え、光をお念仏に例えられることで、お念仏がいかにして罪悪深重の私たちを救うのかを解説されています。

宗教において重要なポイントは罪の自覚にあります。キリスト教では、アダムが神の命令を破って禁断の果実を口にして以来、人類は罪なる存在だと定義されています。

仏教では、一人ひとりの心には、煩悩(ぼんのう)という精神作用があると説かれ、この煩悩が苦しみや争いを生み出す原因だと言われています。

代表的な煩悩として、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、痴(真実が分からない)という、三毒の煩悩があります。これらは心の悪です。

それから、妄語(うそ)、両舌(両者を仲違いさせる)、悪口(他者を罵る)、綺語(きれいごと)という、口の悪があります。

そして、殺生(生き物を殺す)、偸盗(盗み)、邪婬(不倫)という、身の悪があります。

心の悪3つ、口の悪4つ、身の悪3つを合わせて十悪と言います。

みなさんは、何項目該当していますか?

法律によって取り締まりを受けるのは、身の悪、口の悪までであり、心の悪については表には見えないため、社会的に罰することができません。

仮に私が「あいつを殴ってやろう」と思っても、実行しない限りは罪には問われません。

ところが、仏教に返しますと、悪心を抱いた時点でアウトなのです。

つまり、罪の根っこは、私たちの煩悩にあるということです。

そして、仏教で一番やってはいけないと教えられる「殺生」ですが、この殺生からして私たちは避けることができないのです。

なぜなら、私たちが生きていくためには、尊い動植物のいのちをいただかなければならないからです。

精進料理にしても、野菜のいのちを奪っているわけです。

この他、不快な虫を殺したり、庭の草を取ったり、私たちが生きるということは、意識の有無にかかわらず、何かしらの罪を造り続けているということが知らされてきます。

罪を犯した者の行先は地獄です。地獄の猛火が待っています。

しかし、このような「罪悪深重の悪人を必ず救い取る」という、この上ない誓いを建てられたのが阿弥陀さまなのです。

阿弥陀さまは、どのような修行も及ばない私たちのために、「南無阿弥陀仏」のお念仏を選び取られ、私たちに「我が名を称えよ」と呼びかけておられるのです。

私たちは口に「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えることで、その声の背景にある、私たちのことを願って止まない阿弥陀さまのお慈悲の温もりを感じられるのです。

したがって、親鸞聖人のお念仏は、「聞く」ということが、とても重要になります。

真宗教団連合発行の法語カレンダー2006年の表紙に「いま 光がとどいたのではない 光に遇わなかっただけだ」吉岡妙子 作という言葉がありましたが、どんなにお念仏を称えていたとしても、それを自分の手柄にしてしまって、阿弥陀さまのお慈悲を感じられなければ光に遇ったとは言えないでしょう。

逆に、一見、常識のないような人でも、阿弥陀さまのお慈悲を十分に感じられている人は、光に遇ったと言えるでしょう。

闇が破られたその驚きは信心として相続され、たとえ、再び迷いの中に埋没しようとも、日々、聞法を続け、お念仏を申す生活を続けていくことで、いつでも阿弥陀さまのお慈悲の温もりに触れることができます。

「大悲倦(ものう)きことなく、常に我を照らしたまう」(『正信偈』)とありますように、光自体は、いついかなるときにおいても私を照らしてくださっているのです。

どうぞ今年も、ご一緒に聞法の生活をさせていただきましょう。

合掌

2024.12.31 掲載