如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし 親鸞

今年も報恩講(ほうおんこう)シーズンとなりました。報恩講とは、宗祖親鸞聖人の御命日(旧暦11月28日、新暦1月16日)に合わせて、親鸞聖人のご遺徳を偲ぶとともに、阿弥陀さまのお救いにあずかる身になれたことに対するご恩をよろこび、報いるための法要です。

その歴史は古く、親鸞聖人の33回忌に合わせて、本願寺第3代の覚如上人が親鸞聖人の御真影の前で『報恩講私記』を拝読したことが始まりと言われています。

今回の言葉は、「如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし」という『正像末和讃』の一節です。

和讃は上の句と下の句があり、全文は次のようになります。

  信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし

如来の大悲とは、「すべての者を漏らさず私の国(浄土)に生まれさせて、必ず仏に成らせたい。もし生まれない者があるなら、私は仏に成らない」という法蔵菩薩の誓願です。

法蔵菩薩は阿弥陀さまの前身である菩薩ですが、『仏説無量寿経』によりますと、もともと国王であったそうです。

国王とは、地位も財産も名誉もすべてを手にした世間の王ですが、何か満たされないものを抱えていたそうです。

そしてある日、世自在王仏の説法を聞かれたときに、これまでの迷いが晴れわたったように、とても感激されたのです。

そして、「私もあなたのような仏と成り、苦悩に沈むすべての者の苦しみの本を抜き取りたい」という志のもと、出家され、法蔵菩薩と名のられました。

法蔵菩薩はすべての者を漏らさず救いとるために、浄土という国を作ろうと考えられました。

ところが、法蔵菩薩にはどうすれば浄土を建立できるのかが、さっぱり分かりませんでした。

法蔵菩薩は世自在王仏に尋ねられます。「どうか浄土を建立するための方法を教えてください」と。

しかし、世自在王仏は「それはあなた自身で知りなさい」と、退けられます。

それでも法蔵菩薩は諦めません。「いいえ、この問いは仏さまでなければ解けません。どうかお説きください」と、食い下がられました。

法蔵菩薩の問いが本物であることを確かめられた世自在王仏は、法蔵菩薩のために二百一十億に及ぶ仏の国と、そこに住む人民の善悪をすべてお見せなったのです。

法蔵菩薩は永い時間をかけて、そのすべてを一つひとつ丁寧にご覧になり、さらに五劫という果てしない時間をかけて思惟され、ついに浄土を建立するための願い、本願を建てられたのです。

本願は48の願いにまとめられましたが、その精神は冒頭の4つの願いに現れています。

それを平たく言いますと、「あらゆる人と対立することなく、みんなが満足できる国にしたい」「自分自身に満足し、あらゆる人を尊敬できる国にしたい」ということです。

この願いは、法蔵菩薩の願いでありますが、私たち自身も心の奥底で願っている本当の願いでもあるのです。

とはいえ、私たちは煩悩(ぼんのう)を抱えた凡夫(ぼんぶ)です。

目先のことばかりに捉われて、「自分さえよければいい」という精神で、平気で相手を傷つけていくのが現状です。

「このような私たちの心を、どうすれば浄土を願う心に翻させることができるのか」、この課題を胸に法蔵菩薩はさらに修行を重ねられました。

こうして導き出されたのが、「私の名前を称えなさい」、すなわち「南無阿弥陀仏」のお念仏であったわけです。

お念仏を申すことは、お金がある人もない人も、勉強ができる人もできない人も、運動ができる人もできない人も、誰もが平等に行うことができます。

そして、「南無阿弥陀仏」の名号には、法蔵菩薩の願いと行のすべてが込められています。

法蔵菩薩の願いは名号に託され、名号はそれ自体にはたらきをもって、私たちを導き続けてくださっているのです。

名号を称えること、そのこと自体が名号のはたらきであり、決して私の手柄ではありません。

そして、名号を称えることは、その声を聞くことにつながっていきます。

つまり、「『南無阿弥陀仏』の声を私がどのように聞かせていただくか」という、聞き方の問題になります。

これが信心の問題です。

「南無阿弥陀仏」の声を親鸞聖人は「私一人を救わんとされる法蔵菩薩のご苦労」と受け止められ、罪深き、救われ難きわが身を包み込んでくださるはたらきに悲しみとよろこびの涙を流されたのでした。

しかし、このせっかくの心が続かないのも本当です。『歎異抄』第九条で唯円は「お念仏を申しても、躍り上がってよろこぶような心が起きず、また急いで浄土へ参りたいという心も起きないのは、どうしたことでありましょうか?」と、親鸞聖人に尋ねられています。

これについて親鸞聖人は、「私もこの不審を持っている」と告げられ、「それは煩悩の所為である」とお答えになっています。

そして、「煩悩具足の凡夫を救うのが本願です。いよいよ大悲大願は頼もしく、往生浄土は確実ということです」と締めくくられています。

今回の和讃においても、主語は「疑心自力の行者」になっています。

つまり、信心を最後に阻むものは、私の疑心であるわけです。

しかし、『歎異抄』の問答に返しますと、疑心が起こるのは煩悩の所為です。

したがって、今回の和讃では「疑心自力の行者も、まずはお念仏を申しましょう」と、親鸞聖人がすべての者に向けて称名念仏、すなわち「南無阿弥陀仏」のお念仏を勧められているのです。

お念仏の聞き方は、とても大事な問題です。しかし、疑心を拭い去ってからお念仏を申すというのではないのです。

疑心があろうとも、なかろうとも、「南無阿弥陀仏」のお念仏を申し、浄土の願いを聞くことが大切なのです。

合掌

2025.10. 3 掲載