水よく石を穿つ ただ仏法は聴聞に極まることなり 蓮如 『御一代記聞書』

いよいよ10月に入りました。10月は年度で言うところの折り返しにあたります。
4月から始まったNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』も9月27日をもって最終回を迎え、次作『おむすび』に引き継がれたところです。

『虎に翼』は、日本初の女性弁護士、女性判事として活躍された三淵嘉子さんをモデルにした作品です。
戦前から旧憲法に疑問を抱え、男女平等の社会を訴えてきたのが主人公の寅子です。
寅子は、女性の幸せと言われていた結婚よりも、「地獄の道」と評された法曹の道を進みます。

当時、女性が学ぶ法律専門学校はまだ開校したばかりで、女性弁護士は皆無、女性裁判官に至っては旧憲法により道を閉ざされていた状況でした。

そんな中、寅子は法律専門学校に入学すると、女性の法曹界での道を開くために尽力されていた穂高教授のもとで、同じく法律を志す仲間とともに学びを深めていきます。

その間、お父さんの逮捕(のちに無罪)など、幾度となく困難にぶつかりながら、ついに寅子は日本初の女性弁護士になったのです。

しかし、女性というだけで依頼が来なかったり、結婚したくても相手に断られるなど、地獄の道は続いていきます。

なんとか結婚して、仕事に追われるようになると、子どもを授かり、今度は仕事と育児の問題を抱えます。

寅子は、女性の法曹界での道を閉ざさないために、「出産直前まで仕事をしたい」と頑張りましたが、ついに体が限界を迎えて倒れてしまいます。

そんな寅子のことを心配した穂高教授は、今は仕事を休むこと勧め、「世の中はそう簡単に変わらんよ。『雨垂れ石を穿つ』だよ。君の犠牲は決して無駄にはならない」と告げられます。

しかし、この言葉に寅子は「つまり先生は、私には石を砕けない、雨垂れの一粒でしかないとお考えなのですか?」と激怒し、寅子の心は折れ、二人の間に亀裂が生じてしまいました。

寅子の体調を気遣った穂高教授の言葉に悪意はないと思いますが、このときの寅子にはどうしても許せない言葉だったのでしょう。

その後、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という、日本国憲法が施行され、社会は大きく変わりました。

新憲法のもと、寅子は法曹界に復帰し、女性初の判事として活躍することになります。

ときは流れ、穂高教授が最高裁判事を退任されることになり、祝賀会で二人は再会します。

穂高教授は壇上で、「結局私は、大岩に落ちた雨垂れの一雫に過ぎなかった。でも、なにくそと、もうひと踏ん張りするには、私は老いすぎた。諸君、あとのことはよろしく頼む」と、少し弱気な挨拶をされます。

その後、寅子が花束を渡す段取りになっていましたが、寅子はそれを拒否し、会場を出た後で穂高教授に「謝りませんよ私は。先生に、自分も雨垂れの一雫なんて言って欲しくありません」と、またも決裂してしまいます。

ときは流れ、最終回に進み、最高裁長官を退任した桂場が「私は今でも、ご婦人が法律を学ぶことも職にすることも反対だ。法を知れば知るほど、ご婦人たちはこの社会の不平等で、いびつでおかしいことに傷つき苦しむ。そんな社会に異を唱えて何か動いたとしても、社会は動かないし変わらん」と切り出すと、寅子は「今、変わらなくても、その声がいつか何かを変えるかもしれない。未来の人たちのために、自ら雨だれを選ぶことは苦ではありません。むしろ至極光栄です」と、吹っ切れたように話していました。

「雨垂れ石を穿つ」という言葉は、「小さな努力でも根気よく続けてやれば、最後には成功する」という意味で、「継続は力なり」という意味の良い言葉ですが、このドラマでは当初、自分が「雨垂れの一雫」であることに反発する描写が描かれました。

寅子は何とか自分たちの代で石を穿ちたかったことでしょうし、穂高教授にも諦めの言葉ではなく、最後まで石を穿つ心を見せて欲しかったのでしょう。

しかし、寅子自身も定年が近づいている最終回では、「未来の人たちのために、自ら雨垂れを選ぶことは苦ではありません」と、自分が「雨垂れの一雫」であることを前向きに受け入れているように見えます。

今の寅子なら、きっと穂高教授と和解できたのではないでしょうか。

「雨垂れ石を穿つ」という言葉は、色んな場面で使われますが、例えば、蓮如上人は、

至りて堅きは石なり、至りて軟なるは水なり、水よく石を穿つ。
「心源もし徹しなば、菩提の覚道何事か成ぜざらん」といえる古き詞あり。
いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候間、信を獲べきなり。
ただ仏法は聴聞に極まることなりと云々。

                       『蓮如上人御一代記聞書』193通

と仰っています。蓮如上人は、石を私の煩悩。水を仏法に例えられています。
つまり、「どんなに信じられなくても、仏法を聴聞しなさい。聴聞を続ければ、やがて石を穿ち、信を獲ます。仏法は聴聞に極まります」と仰っているのです。

それでは、「聴聞」とはどんな聞き方でしょうか。

よく言われるのが、「聴」はこちらから集中して聴くこと。「聞」は向こうから聞こえてくることです。

親鸞聖人は「聴」について「ユルサレテキク」。「聞」については「シンジテキク」と左訓されています。

一体、何を許されるのでしょうか。それは煩悩具足の凡夫であり、出離の縁なきわが身に他なりません。

また、聞については、「本願をききて疑ふこころなきを『聞』といふなり」『教行信証』「信巻」とあるように、このようなわが身を救い取るために建てられた阿弥陀さまの本願を疑わないことであります。

疑う余地がないほどに、わが身のありのままの姿を知らされるということでしょう。

それを信心と言います。聞即信です。

ですから、分かっても、分からなくても、仏法を聞いていく姿勢が大切なのです。

仏法を聞き続けることで、石を穿ち、わが身のありのままの姿に頷けるときがくるのでありましょう。


合掌

2024.10. 1 掲載