人身受け難し 今すでに受く 仏法聞き難し 今すでに聞く 『三帰依文』
新年度がスタートしました。4月からの新生活に不安と戸惑いを抱えておられる方も多いのではないでしょうか。今回の言葉は、『三帰依文』の冒頭の言葉です。
全文は、
人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん。
大衆もろともに、至心に三宝に帰依し奉るべし。
自ら仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して、無上意を発さん。
自ら法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、深く経蔵に入りて、智慧海のごとくならん。
自ら僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して、一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
という言葉です。『三帰依文』の歴史は古く、今から約2500年前、お釈迦さまの在世中より、仏弟子になる際に唱えられていたそうで、今日パーリ語でも伝わっています。
内容は仏教における三つの宝、「仏(真理に目覚めた人、如来)・法(仏の教え)・僧(仏教に生きる人々)に帰依します」という表明になります。
冒頭の「人身受け難し、いますでに受く。仏法聞き難し、いますでに聞く」という言葉は、人間として生を受けることの難しさと、その中でさらに仏教を聞くことができることの難しさを伝え、まさに今、仏教にご縁を持てたことに感謝する言葉になります。
古代インドの世界観では、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの世界を、生まれ変わり、死に変わりしながら、永遠に彷徨い続ける六道輪廻という思想があります。仏教はこの六道をすべて迷いの世界と捉えて、輪廻を断ち切ってさとりの境地に至ることを目指しています。
私たちがさとりの境地に至るためには、真実の教えが必要となりますが、この六道の中で唯一、仏教を聞くことができるのが人間界なのです。
六道のうち最初の4つ、地獄・餓鬼・畜生・修羅は苦しい世界です。苦し過ぎて仏教を聞く暇がないのです。反対に天は楽しい世界です。ところが、楽し過ぎてもまた仏教を聞くことができないのです。しかも、天人の死の直前には、地獄の16倍の恐怖を味わうと説かれています。
すなわち、私たちは人間として生まれたことに、まず感謝しなければなりません。
そして、六道の中で唯一、仏教を聞くことができる身として生まれたチャンスを逃さないためにも、日々、聞法を続けなければならないということです。
ところが、現在はお釈迦さまが涅槃に入られて約2500年が経過した無仏の時代でであり、仏教がだんだん廃れていく末法の時代と言われています。
お釈迦さまがご健在であれば、直接説法を聞いたり、直接質問に答えていただけますが、無仏のときを生きる私たちは、一体どうすればいいのでしょうか?
『仏説無量寿経』の冒頭で、仏弟子の阿難が突如、立ち上がって「今日のお釈迦さまは、とても輝いておられます」「お釈迦さまは、過去・未来・現在の仏さまと相念じておられるのですね」と、尋ねる場面が説かれています。
阿難はお釈迦さまのお世話をする役どころで、一番、お釈迦さまの説法を聞いていたことから「多聞第一」と呼ばれていました。しかし、なかなか煩悩を離れられず、私たちと同じ凡夫の立場でもありました。
その凡夫である阿難が、お釈迦さまを初めて仏さまとして仰ぐことができたのです。
お釈迦さまが阿難に「その質問は天の神々が問わしたのか?それともお前自身の問いか?」と尋ねますと、阿難は「これは私自身の問いです」と答えました。
お釈迦さまは「阿難、よく気づいてくれた」と褒められ、ここから法蔵菩薩の物語が説かれていきます。
法蔵菩薩は阿弥陀さまの前身ですが、世自在王仏の説法をお聞きになり、とても感激され、「私もあなたのような仏となり、すべての人の苦しみの本を抜き取りたい」という崇高な志のもと出家され、浄土という国を建立しようと誓われたのです。
しかし、法蔵菩薩にはどのような国を作ればいいのか分かりません。そこで世自在王仏に尋ねられるのです。
世自在王仏は「それはあなた自身で知りなさい」と退けられますが、法蔵菩薩が「いいえ、この問いは仏さまでなければ分かりません」と食い下がりますと、世自在王仏は法蔵菩薩に二百一十億もの仏国を見せられ、法蔵菩薩は果てしなく長い時間をかけて一つひとつの国土と人民の善悪をご覧になったそうです。
法蔵菩薩はさらに五劫という時間をかけて思惟され、浄土を建立するための願い、本願を建てられたのです。
本願は具体的に四十八の願いがありますが、大きくまとめますと「誰とも対立することなく、あらゆる人を尊べるように」「自分自身を引き受けて、自信を持てるように」という願いであり、これは私たち自身の本当の願いでもあったのです。
法蔵菩薩は、私たちに「浄土に生まれたい」という願いを起こしてもらうために、「南無阿弥陀仏」のお念仏を選ばれたのです。
お念仏は難しい勉強ができなくても、修行をクリアできなくても、誰でも称えることができます。
「南無阿弥陀仏」のお念仏は、阿弥陀さまの願いとはたらきのすべてが込められているのです。
私たちはただ「南無阿弥陀仏」の声を聞かせていただき、その声の背景にある、阿弥陀さまの願いと、私たちの先を歩んでいかれた先輩方(諸仏)の願いを聞かせていただき、私を育んでくださるたくさんのおかげ様に感謝を申し上げましょう。
「ありがとう」という言葉は、「有難し」という仏教用語です。
仏説を聞き、いのちの尊さに目覚めたことへの、大いなる感動を表す言葉が由来になっています。
親鸞聖人は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』)と仰り、救われ難い、罪悪深重のわが身をまるごと包み込み、本当の願いに目覚ませてくざさる阿弥陀さまの大悲のおはたらきに、悲喜の涙を流されたのでありましょう。
合掌
