摂取の心光 つねに照護したもう 『正信偈』
2023年の幕開けとなりました。
昨年は新型コロナウイルスの流行に加えて、ロシアによるウクライナ軍事侵攻など、物々しい報道に心を痛められた方も多いことと思います。仏教では、私たちの苦しみの本を煩悩(ぼんのう)として押さえます。煩悩は三毒の煩悩に代表されるように、①欲の心、②怒りの心、③何が真実か分からない心であります。戦争などは、まさに煩悩の最たるもので、「過去の領土を取り戻したいという欲」「異なる価値観は認めないという怒り」そして、「何が真実か分からない」「自分は正しい」ということで、未だ双方に落としどころが見つからない状況です・・・。
戦争の被害者は、そこに住む人たちです。特に子どもたちです。
そして、核兵器の問題、ミサイルの問題、原子力発電所の問題、世界的な物価高、円安など、色んな問題を突きつけてきました。
本当に人間は愚かということを思い知らされます・・・。
今回の言葉は、親鸞聖人が『正信偈』の中で語られた「摂取の心光」に関する言葉です。
「摂取」とは、「どこまでも追いかけてきて、抱き取って離さない」というはたらきです。そして、「心光」とは、「念仏者を護り育ててくださる阿弥陀さまの智慧のはたらき」を意味します。つまり、「阿弥陀さまのおはたらきは、常に私を照らし、私を護ってくださっている」という事実です。
ところが、普段の私たちは、阿弥陀さまから背を向けており、なかなか手が合わさりません。なかなかお念仏の声も聞こえません。まさに「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』)という姿です。
阿弥陀さまと言いますと、仏像なり、絵像で描かれますが、浄土真宗のご本尊は、共通してお立ちになった姿をしております。
これは『仏説観無量寿経』(以下『観経』)の第七華座観において、韋提希が仏力によって、阿弥陀さまのお姿をご覧になった場面を受けてのことです。
私たちの苦しみに先立って、阿弥陀さまのほうから立ち上がってくださった有り難いお姿なのです。
韋提希はこのとき、仏力によって自身の深い闇が破られ、未来世を生きる私たちのために、「未来の人たちはどうしたら私と同じ体験ができるのでしょうか?」という問いを立てます。
それまでは、自分のことしか頭になかった韋提希ですが、このときに他を憐れんでいける心が芽生えたのです。
そして、その答えは、「称南無阿弥陀仏」(『観経』散善義)ということでありました。
すなわち、口に「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えることです。
お念仏によって、私たちは韋提希と同じ体験を賜ることができるのです。
このときの阿弥陀さまを方便報身と言います。方便というのは、私たちを導くための手立てです。
報身は、私たちを救いとるための、願いと修行を完成された仏身です。
つまり、阿弥陀さまは私たちに「浄土に生まれたい」という心を芽生えさせるために、法蔵菩薩の大きな物語になられ、私たちの前に空中にお立ちになった姿を現され、さらには「南無阿弥陀仏」のお念仏の声にまでなってくださっているのです。
これほど頭の下がるご苦労はありません。
愚かな私のために、こんなにも一生懸命にはたらき続けてくださっているのです。
大谷派の暁烏敏先生のご法話の中で、石川県の伝統料理「フグの卵巣の糠漬け」のお話があります。
通常、猛毒であるフグの卵巣ですが、3年間かけて、塩漬け、糠漬けにすることにより、毒が無害化され、珍味に変わるという奇跡です。
このお話に準えますと、私たちの心は猛毒そのものです。それが阿弥陀さまの大悲に抱かれることにおいて、「毒が転じて徳となった」のです。それを言い替えますと、自分自身が猛毒の存在であると、しっかり自覚させられたということです。
このことに頷いてしまえば、おのずから、聖徳太子の言葉である「ともにこれ凡夫」(『憲法十七条』)という地平に立つことができます。すなわち、本当の平等です。
性格も、能力も、姿かたちも、生まれも、育ちも、何もかも違う人間が、一体どこで平等と言えるのでしょうか?
それは「ともにこれ凡夫」という一点であります。
一般庶民から、総理大臣、大統領、国家主席に至るまでみんな凡夫です。
凡夫について親鸞聖人は、「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(『一念多念文意』)と、仰っています。
まさに凡夫とは、私たちの存在そのものであります。
しかも、「臨終の一念にいたるまで」ですから、凡夫の身を途中で捨てることはできないのです。
生きている限り、凡夫の身は手放せません。
凡夫であることをやめるためには、人間をやめなければなりません。
その限りにおいて、人間は自分の力では、決して仏に成ることができません。
このようなわが身に痛みを感じるとき、おのずから、他者の痛みにも心が開かれてくるのでありましょう。
そして、「ともに浄土に生まれたい」という心が育まれ、ますますその思いが強くなるのです。
親鸞聖人の言葉では、念仏者は「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」(『親鸞聖人ご消息集』)の願いに生きていくのです。
今は、一日でも早い戦争の終結を切に願います。
皆様にとっても、今年一年が充実した一年でありますように。
合掌
2022.12.31掲載
遠回りすることが一番の近道 無駄なことって結局無駄じゃない イチロー
2016年、テレビ朝日制作の報道番組『報道ステーション』の中で、元プロ野球選手で野球解説者の稲葉篤紀氏が、当時、マイアミ・マーリンズに所属していたイチロー選手と対談した中で、イチロー選手から出された言葉です。
対談の流れとしては、今の時代はインターネットなどでたくさんの情報が手に入り、どれをピックアップすればいいのか迷うということと、たくさんの知識で頭でっかちになる傾向があるという話になり、稲葉氏が「(知識を活かして)最短で行ける可能性もあるのでは?」と発したところ、イチロー選手は「無理だと思います」と断言されたことです。
さらにイチロー選手は、「まったくミスなしでそこに辿り着いたとしても(辿り着けないと思いますが)深みは出ません」と仰います。
この対談では、ウエイトトレーニングの話もされており、イチロー選手は、
「トラとかライオンはウエイトしません。持って生まれたバランスを崩したら絶対ダメです」と否定されました。人体の構造をよく理解して、本来のバランスを崩さないようなトレーニングをしないとパフォーマンスが落ちるということです。
イチロー選手自身、春先にウエイトトレーニングによって体を大きくしたところ、シーズンに入ってからスイングのスピードが落ちていることが気になっていたそうです。シーズンが始まって体重が落ちていくにつれて、だんだんスイングのスピードが上がっていくことに矛盾を感じられ、ウエイトトレーニングの失敗に気づかれたそうです。それも6、7年繰り返して、ようやく「本来のバランスを崩さないことが大事」という答えに辿り着いたそうです。
今、この話を親鸞聖人に当てはめますと、
親鸞聖人は、9歳で得度され、約20年間、比叡山で修行と勉学に励まれました。
その目的は「断惑証理(だんわくしょうり)」と言い、「煩悩(ぼんのう)を断じて、仏のさとりを得る」という、自らの煩悩の超克にありました。
しかし、自らの煩悩は抑えようとすればするほど、底なし沼のように内から湧き上がってきます。
「自分が少しでもマシな人間になり、人々を導きたい」という思いは、究極の理想であることは間違いないのですが、理想に対して現実の体がどうしてもついていかないのです。
それなりに修行をやっている風に見せて、比叡山でやり過ごすことは十分に可能だったわけですが、親鸞聖人にはこの問題が見過ごせませんでした。
親鸞聖人は29歳のときに比叡山を下りられ、京都市中の六角堂に参籠され、ご本尊の救世観音に自分が進むべき道を問われました。
六角堂は聖徳太子が創建したお堂と伝わり、ご本尊の救世観音は太子の化身として信仰を集めていました。
参籠開始95日目の暁、親鸞聖人は夢の中で、救世観音からのお告げを賜ります。それは、
「行者、宿報によって設い女犯すとも、我、玉女の身となって犯せられん。一生の間、能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしむ」
というものでした。『行者宿報偈』とも呼ばれます。
女犯というのは、戒律の一つであり、この場合は相手を傷つけてしまう意味になります。
宿報というのは、その人が生まれる前から積み重ねてきた行為の報いのことです。
つまり、このお告げは「あなたが過去から積み重ねてきた行為の報いとして、たとえ罪を重ねたとしても、私(救世観音)は一生、あなたとともに歩むでしょう。そして、あなたがいのちを終えるときには、極楽浄土に導きましょう」という大悲の声であります。
この声から教えられることの一点目としては、「人間は生きている限り、普遍的に罪を造っている存在である」ということです。
いのちをつなぐ上で欠かせない食べることからして、私たちは他の尊いいのちを奪っていますし、生きていく上で邪魔になる虫や動物のいのちを奪っています。つまり私たちが生きていることは、「殺」の上に成り立っているということです。
この他にも私たちは、身・口・意の三業にわたって、常に罪を造り続けているわけです。
このような私たちの存在を「煩悩具足の凡夫(ぼんぶ)」「悪人」と言います。
そして、二点目は、「このような私たちの存在を丸ごと包み込み、決して見捨てることなく、最後まで寄り添ってくださるはたらきがある」ということです。
それが救世観音であり、その大本は阿弥陀さまの願い(本願)でありましょう。
親鸞聖人はこの願いに大きな勇気をいただき、京都東山の吉水にて、身分や性別に関係なく、民衆にお念仏の教えを説いておられた法然上人を訪ねられたのでした。親鸞聖人は法然上人にありったけの疑問をぶつけられ、100日間ひたむきに教えを聞き続けました。
そして、「雑行を棄てて本願に帰す」(あらゆる修行を棄てて、ただ阿弥陀さまの願いに身を任せます)という、回心(えしん)に至るのであります。
回心は、親鸞聖人の仏道が自力から他力へと180度転換する大きな出来事であり、親鸞聖人の中での疑いが破られた瞬間であります。
このとき、法然上人から賜り、親鸞聖人が生涯忘れることがなかった言葉は、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」の一言でありました。
それでは、親鸞聖人がこれまで積み重ねてこられた20年に及ぶ比叡山での修道は、無駄だったのでしょうか?
そんなことはありません。
親鸞聖人は、20年間、真剣に道を求められたからこそ、阿弥陀さまの願いに出遇うことができたのです。もし、20年間を中途半端にダラダラと過ごされていたなら、この出遇いはなかったか、あるいは、もう少し遅かったかもしれません。この他にも、人生における様々な苦しみがきっかけとなって、ますます阿弥陀さまの願いに出遇っていく、ますます願いが身に沁みていくということがあります。
イチロー選手は「わざと無駄なことに飛びつくことはしないけど、後から振り返ると無駄だったことってすごく大事」と仰います。
人生の中では、様々な選択を迫られるときがあり、私たちはその度に決断をしていきます。後から考えると間違っていたこともあるでしょう。
しかし、そのときの自分が一生懸命考えて出した答えは尊重すべきですし、間違いに気づくことも大きな成長であります。
失敗したら、今度は同じ失敗をしないように努力すればいいのです。
まずは、自分で道を考えて、自分で実践してみる。その中で試行錯誤しながら、長く続けてみて、そこで見えてきたものが答えということでしょう。
そういった意味では、浄土真宗の教えは、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という答えが最初から用意されています。
答えがあるがゆえ、「納得できない」「信じられない」「ただの堕落だ」「悪人が救われるのはおかしい」など、様々な疑いが出てくるのも事実です。
その疑いを晴らすためには、やはり、自分で実践してみて、人生の様々な経験を通しながら教えを聞き続け、自分で答えに辿り着くしかないのではないでしょうか。
大谷派の金子大榮先生も、「念仏者の人生には無駄がないということではないか。悲しみに泣いた日もあった。けれどもそれは往生浄土の人生において無駄なことではなかった」と、亡くなる前に回顧され、嬉しいときも、悲しいときも、苦しいときも、そのすべてが今の私につながっており、何一つ無駄なことはなかったと仰っています。
私たちもこのような頷きができるよう、日々、教えを聞き続けてまいりましょう。
合掌
2022. 9.30掲載
必ず また会える 懐かしい場所で 必ず 憶えてる いのちの記憶で 二階堂和美
先月、栗林公園で59年ぶりに竹の花が咲いたと話題になりました。
竹は花が咲いた後に枯れて、また新たな竹林が生まれるそうです。
ここに、竹における「いのちの循環」があります。
竹のつながりから、スタジオジブリ制作の映画『かぐや姫の物語』(2013公開)を視聴してみました。
この作品は、2018年に亡くなった高畑 勲監督の遺作となります。
原作はみなさんご存知の『竹取物語』です。
原作がおじいさんに焦点を当てているのに対して、この作品はかぐや姫を主人公にしています。
竹の中から生まれたかぐや姫。おじいさんとおばあさんは、姫をわが子として大切に育てます。
姫は山の中で、男の子たちと走り回りながら、急激に年頃の女性に成長していきます。
ある日、おじいさんは竹林の中で、大量の金貨と美しい衣を手に入れました。
おじいさんはこの出来事を「この衣にふさわしい娘に育てよ」という、天のお告げと考えたのです。
そこで、おじいさんは姫を高貴な娘に育てるべく、都に大豪邸を建てて、貴族の教育を施しました。
しかし、結果的にこのことが姫から自由を奪い、姫に深い悲しみを与えてしまうのです。
やがて、姫のもとに公家たちが次々と求婚に訪れます。それに対して姫は、無理難題を持ちかけては公家たちを撃退していきます。
極み付きは帝です。帝はこれまでの公家たちとは違い、問答無用で強引に姫を連れて行こうとします。
このとき、姫は不思議な力を使って帝の手から逃れ、月にSOSを発信してしまったのです。
このSOS発信により、姫は「自分は月からやって来たこと」を思い出し、「もうすぐ月の迎えがやって来ること」をおじいさんとおばあさんに伝えます。
その後、姫はおばあさんの計らいにより、生まれ育った山に出かけて、偶然、幼馴染の男の子と再会しました。
ここで二人は昔の思い出を語りながら、両思いになれました。
しかし、ハッピーエンドとはいかず、予定通りに月の迎えがやって来ました。
おじいさんは兵士を雇って、月の迎えを阻止しようとしますが、兵は月の力で眠りにつかされます。
姫は「帰りたくない」と、おじいさんとおばあさんと抱き合って涙を流します。
そこに天女が「清らかな月にお帰りなさい。この地の穢れも拭い去れましょう」と、姫に羽衣を着せようとします。
この羽衣を着せられると、姫は地上の記憶を失うようです。
天女の発言に対して姫は、「穢れてなんかいないわ!喜びも悲しみも、この地に生きているものは、みんな彩りに満ちて、鳥、虫、獣、草、木、花、人の情けを・・・」と反論しますが、天女に羽衣を着せられて万事休す。
しかし、記憶を失ったはずの姫は、おじいさんとおばあさんの姿を振り返って涙を流すという、とても悲しいお話です。
その直後、エンディングとして、二階堂和美さんの『いのちの記憶』が流れます。
この悲しいお話を、二階堂さんの透き通った歌声が、そっと癒してくれます。
「いまのすべては過去のすべて 必ずまた会える懐かしい場所で」「いまのすべては未来の希望 必ず憶えてる いのちの記憶で」という歌詞がとても印象的です。
この作品は、月を涅槃界(仏の世界)、地上をこの世として対比させていることから、どこか仏教的な要素があります。
したがって、月からのお迎えは来迎をイメージしているようです。
天女が言うように、地上は煩悩に穢れた世界です。
嫌な人間もいますし、苦しいこと、辛いこともたくさんあります。
姫自身も「もう嫌だ」と、何度も思ったことでしょう。
SOSを発信したのは姫自身ですから。
しかし、地上には喜びや楽しみもあり、どこか名残惜しいところがあります。
『歎異抄』第九条に、「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、 かの土へはまいるべきなり」という言葉があります。
この条は、唯円が「念仏を申しても喜べません」「浄土に生まれたいという心も起きません」と、親鸞聖人に相談するところから始まります。
唯円の問いに対して、親鸞聖人は「私もその不審がありました。それは煩悩の仕業なのです」とお答えになり、「このように煩悩を離れられない私たちのために阿弥陀さまは本願を建てられたのですから、往生は間違いなしです」と、すでに阿弥陀さまの願いの中に生かされていることを頼もしく思われています。
しかし、私たちの思いがどうであれ、誰の身にも必ず別れのときは訪れます。
特に大切な方との死別は、とても耐え難いものです。
果たして、死はすべてを無にすることでしょうか?
人間は「人と人との間を生きる存在」ですが、元来、一人の力で生きている人はおらず、常に誰かから影響を受けたり、生まれ育った環境や土地、歴史など、数限りないたくさんのものが蓄積して、今の私のいのちとなっているのです。
そして、私もまた、知らず知らずのうちに、誰かに影響を与えており、誰かの「いのちの記憶」に宿っていくのです。
死によって、その人の姿や形は目に見えなくなります。
しかし、その人が生きた証は、その人がかかわったすべての人の「いのちの記憶」に必ず蓄積されていきます。
その「いのちの記憶」を呼び覚ますことが、ご法事の大切な意味でありましょう。
そして、その人の想いは、「南無阿弥陀仏」のお念仏の声となって、顔も名前も知らないたくさんの人を勇気づけてくださいます。
「南無阿弥陀仏」のお念仏の声として、いつまでもはたらき続けてくださいます。
死は決して、すべてを無にすることではなく、その人のすべては、誰かの「いのちの記憶」の中で生き続け、誰かのお念仏の声として、いつまでもはたらき続けてくださるのです。
その意味では、死は一つの通過点であると言えるでしょう。
「すべての人を必ず浄土に生まれさせ、仏に成らせたい」という阿弥陀さまの願いとなって生き続けるのです。
したがって、私も娑婆の縁が尽きたときには、名残惜しい気持ちはあると思いますが、安心して浄土に帰っていくことができるのです。
これが人間における「いのちの循環」ではないかと思います。
合掌
2022. 6. 8掲載
どの戦場でも共通していたこと 「戦争の犠牲者はいつも子どもたち」 渡部陽一
令和4年(2022)2月24日、ロシアがウクライナへの武力侵攻を開始しました・・・。
新たな戦争の始まりです・・・。
どのような理由を語ろうとも、一般市民への無差別攻撃や強制連行など、人権を無視した行為は許されるものではありません・・・。
今回は戦争と平和について考えてみたいと思います。
まず、戦争はどちらも「正義」と「正義」のぶつかり合いということです。
ロシアには、「ウクライナを従わせてNATO(北大西洋条約機構)に対抗する」という思惑があり、それがロシアの正義です。
そして、ウクライナには、「自由を守りたい」「祖国を守りたい」という思いがあり、それがウクライナの正義です。
これは国だけの話ではありません、私たち一人ひとりの次元でも同じことです。
私たちは、みんな「自分が正しい」と思って生きていますし、「どこまでも自分が大事」です。
この心を仏教の言葉では、自我と言います。
したがって、自我が傷つけられたときには、「相手が悪い」「許せない」として、一方的に憎悪の感情を抱きます。
しかし、相手もやはり「自分が正しい」という思いがありますから、相手もまた憎悪の感情を膨らませていきます。
やがて、何かのキッカケで憎悪と憎悪がぶつかれば、喧嘩になります。
喧嘩は口で相手を攻撃することから始まり、暴力、さらには、殺人にまで至ることがあります。
つまり、 心 → 口 → 身 の次第で展開していきます。
それでは、この負の連鎖を食い止めるには、どうすればよいのでしょうか?
それは、根本原因である「自らの心を改める」ことです。
具体的に言いますと、「自分は正しい」という「自我の心を砕く」ことです。
そのためには、真実の教え、仏教に触れなければなりません。
自我の心を自分の力(自力)でコントロールすることはできないのです。
仏教では、人間の悪業を「十悪」としてまとめています。
十悪とは、
①殺生(せっしょう)殺し ②偸盗(ちゅうとう)盗み ③邪淫(じゃいん)不貞行為 ④妄語(もうご)嘘 ⑤綺語(きご)綺麗事
⑥悪口(あっく)罵り ⑦両舌(りょうぜつ)二枚舌 ⑧貪欲(とんよく)貪り ⑨瞋恚(しんい)怒り ⑩邪見(じゃけん)間違った見方
の十項目です。
①~③は身に関する悪。 ④~⑦は口に関する悪。 ⑧~⑩は心に関する悪です。
みなさんは、何項目該当しているどうでしょうか?
実は、私たち誰もが、十悪の一丁目一番地である「殺生」からして守れていないのです。
いかがでしょうか?
おそらくほとんどの方が、「何を言う。私は人を殺していない!」と主張されることでしょう。
その思いが邪見であり、私たち人間の思い上がりなのです。
仏教では、「生きとし生けるいのちは平等」と説かれます。
これが仏教の大原則なのです。
人間のいのちも、動物のいのちも、植物のいのちも、みんな平等なのです。
そうなりますと、私たちは、毎日の食事からして悪を造っているのです。
悲しいかな、私たちは他の動物や植物の尊いいのちを奪わなければ、自分のいのちを繋いでいけないのです。
食事以外にも虫はどうでしょう?私たちは、蚊、ハエ、ゴキブリなど、生活する上で不快感を与える生き物を排除しています。
もっとミクロな次元までいきますと、ウイルスもそうかもしれませんね。
つまり、私たちの身を仏教に照らしてみますと、全員が「悪人」ということになります。
親鸞聖人の言葉で言いますと、「煩悩具足の凡夫」「煩悩具足のわれら」ということです。
この地平に立つことで、初めて自分の罪(本当の姿)に気づかされ、このようなわが身の自覚があってこそ、初めて他者の痛みに共感することができるのです。
とはいえ、今回のウクライナ侵攻のように、問答無用で攻撃を加えてくる独裁者に対しては、どうすればいいのでしょうか?
戦場カメラマンの渡部陽一さんは、「戦争は当事者同士ではなくなりません。必ず第三者が間に入ることが大切です」と仰います。
まずは国連なり、宗教者なり、中立的な第三者が間に入って、粘り強く、停戦交渉をまとめることが大切です。
双方のプライドを傷つけない落としどころが見つかればいいのですが、とにかく話し合いましょう。一旦、武器を置いてください。
そして、私たちが、この問題を他人事にせず、「戦争反対」の意志を地道に訴えていくことでしょう。
戦場カメラマンの渡部陽一さんは、コロンビア内戦、ルワンダ紛争、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、イラク戦争など、世界中、130の国と地域を取材してきた経験から、どの戦場でも共通していたことは、「戦争の犠牲者はいつも子どもたち」と仰います。
自宅を奪われ、言葉も文化も違う異国に逃れた子どもたち。
医療体制が十分でない避難所で生まれた新しいいのち。
逆に、救われたはずのいのちが失われていく現実・・・。
家族を亡くし、孤児になってしまった子どもたち。
労働者として、強制連行されていく子どもたち。
はたまた、問答無用で殺されていく子どもたち。
戦争のしわ寄せは、いつも弱者。殊に子どもたちです。
ウクライナのゼレンスキー大統領は、各国の国会にオンラインで演説し、ウクライナへの支援を訴えていますが、その中で盛んに、「想像して欲しい」という言葉を用いています。
実際にいのちのやり取りや戦争を経験していない世代は、なかなか想像しにくい現実ではありますが、それでも自分が経験してきた最も悲しい感情を指標にして、一人ひとりが戦争の悲しみを想像する努力をしなければなりません。
阿弥陀さまの願い。それは「生きとし生けるものを浄土に生まれさせ、仏に成らしめること」です。
浄土というのは、簡単に言いますと、「あらゆるものが対立せず、平等に満足できる世界」です。
敵と味方の対立を超えていく道は、みんなが「自分は悪人である」という地平に立つこと。
そして、みんなが「浄土を願って生きる」ことです。
そのことを私たちに思い出させてくれる言葉が「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
浄土を願うことにおいて、私たちは、はじめて他者を尊ぶことができるのです。
独裁者については、批判されるべき存在ではありますが、もう一歩踏み込みますと、憐れむべき存在でもあります。
私たちにできることは何か。ともに考えてまいりましょう。
今はただ「一刻でも早く停戦交渉をまとめて欲しい」「今すぐに武器を置いて欲しい」と、願うばかりです。
合掌
2022. 3.24掲載