世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ  『御消息集(広本)』

令和3年(2021)が終わり、令和4年(2022)が始まります。
新年にあたって、今年の目標を掲げたり、仏さま、神さまにお願い事をされる方はたくさんおられるでしょう。

願い事は、「私的な願い」と「公的な願い」の二つに分けることができます。商売繁盛、家内安全、合格祈願、健康成就などは、私の自分勝手な思いですから、私的な願いの範疇になり、仏教では罪なこととして咎められます。それに対して、世の中全体の幸せを願っていくことは、公的な願いとなり、仏さまから褒められる願いとなります。

親鸞聖人のご生涯を振り返りますと、決して順風満帆ではありませんでした。
幼少期は両親とお別れをし、仏門に出されました。
比叡山では、「自分の力で煩悩を克服してやろう」という理想のもと、一生懸命に修行と勉学に励まれましたが、どうにもなっていかないわが身の事実(煩悩)に絶望されました。

それでも、私を救ってくださる教えがあるということで、吉水の法然上人のもとを訪ね、ようやく、「どのような人も必ずわが国(浄土)に生まれさせる」という阿弥陀さまの願い、「南無阿弥陀仏」のお念仏に出遇うことができたのです。

しかし、それも束の間、今度は既存の仏教教団の訴えを発端に、ときの後鳥羽上皇の命令により、念仏弾圧(吉水教団の解体)という悲劇に見舞われました。

権力者の言いがかりによって、法然門下の4人が死罪。法然上人、親鸞聖人を含む8人が流罪という、大変、厳しい弾圧でした。
処罰にあたっては、僧籍の剥奪も行われました。
それはまた、浄土宗という、民衆のために開かれた新しい仏道を閉ざす行為でありました。

20年間に及ぶ、比叡山での修道を経て、ようやく出遇ったお念仏の共同体を、権力者の都合で一方的に解体させられるという、これほど理不尽な出来事はありません。

親鸞聖人はこの弾圧に対して、激しい憤りを示されますが、問題の原因を権力者個人の問題とせず、「正しい教えと邪な教えの区別がつかない私たち人間のものの見方、煩悩にある」と歎かれ、人間存在全体の悲しみとして捉えられました。

なぜ、親鸞聖人は、このような見方ができたのでしょうか。

法語に掲げた「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」の言葉。
これは親鸞聖人が晩年、京都におられる頃、関東の門弟 性信坊から送られてきた手紙に対して、お返事を書かれたのですが、そのお手紙の一節になります。
この頃、関東でも鎌倉幕府によって念仏弾圧が行われており、性信坊は「念仏者は社会とどうかかわればよいのでしょうか?」ということを親鸞聖人に尋ねたのでした。

この問いに対して親鸞聖人は、「どんなに平和を願っても、『私が正しい、相手が間違っている』という思いでいたならば、必ず次の争いが起こります」と仰り、そうならないためには、「わが身の闇(煩悩)を映し出してくださる仏の智慧(お念仏)に依らなければなりません」として、「世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ」と、静かに願われたのでした。

親鸞聖人ご自身の弾圧で言いますと、「権力者が悪い」という思いだけでは、いつまでも権力者個人への恨みが募っていくばかりです。
親鸞聖人が偉いのは、弾圧を権力者個人の問題とせず、人間存在全体の悲しみとして捉えられたことです。

お念仏を謗る人。それはたまたまご縁が整っていないだけであって、何かのキッカケがあれば、人間は変わることもできるのです。

あの弾圧の命令を下した後鳥羽上皇も、承久の乱で敗れたのち、隠岐の島への流罪となり、亡くなるまでの約20年間は、和歌を詠みながら、お念仏に生きたとも伝わります。

親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」のお念仏によって、敵と味方、上と下の対立を超えていかれたということです。

もし、私たちがお念仏を忘れてしまったならば、その対立は深まるばかりでありましょう。

合掌
2021.12.31掲載


病気に負けたんじゃない 俺の寿命を生ききったということだ  大島康徳

大島康徳公式ブログ『この道』 2021.7.5投稿「この命を生ききる」より
https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/

令和3年(2021)6月30日 70歳で亡くなられた元プロ野球選手 大島康徳さんの言葉です。
投稿が亡くなられた後になっているのは、今年の春頃に大島さんが記された言葉を奥様が後から読者に向けて投稿されたからです。
いわば、大島さんの遺言とも言える言葉です。

大島さんは昭和25年(1950)10月16日、大分県中津市で誕生されました。
とにかく体が強く、スポーツが得意で、中学時代はバレーボール部で活躍される傍ら、相撲部でも助っ人として活躍されたそうです。
バレーボールでは大分県の選抜メンバーであり、ご自身も「バレーボールでオリンピックに出て金メダルを獲りたい」というのが夢だったそうです。

ところが、野球への誘いが急にやってきます。
大島さんの素質に惚れ込んだ中津工業の監督が野球部に誘い、スパイクとグローブをプレゼントされたことをキッカケに、野球の道に入りました。
高校時代はエースで4番。甲子園には届きませんでしたが、1968年のドラフト会議で、プロ野球の中日ドラゴンズから3位指名を受けて入団しました。
高校から始めた野球で、しかも、甲子園に出ていない選手がプロ入りするのは、本当に凄いことです。

プロ入り後は野手に転向し、豪快なフルスイングが特徴の右の強打者として活躍されました。

1976年には、代打でシーズン7本塁打のプロ野球記録を樹立。
1983年には、36本塁打を記録し、本塁打王に輝いています。
1987年オフに日本ハムファイターズに移籍。
1990年に通算2000安打を達成し、1994年に現役を引退されました。
現役24年 通算2638試合 2204安打 382本塁打 打率.272という、輝かしい成績を残されました。

引退後は、NHK野球解説者、東京中日スポーツの野球評論家として活躍され、2000年から3年間、日本ハムファイターズの監督を務められました。
2006年には、第1回WBCで日本代表の打撃コーチとして王監督を支え、世界一に貢献されました。
子どもの頃より「オリンピックで金メダルを獲りたい」という思いが強く、このとき人目をはばからずに嬉し涙を流されたそうです。

そんな中、がん告知は突然にやってきました。
2016年に入り、周囲が心配するほど体が痩せていったそうです。
ご自身は、健康のために始めていたダイエットの成果だと考えていましたが、奥様の勧めで、病院できちんと検査を受けることになりました。
そこでお医者さんから告げられたのが、「ステージ4の大腸がん」「余命は1年」という衝撃的な言葉でした。
心の準備をする間もなく、まるで「風邪です」と告げられたかのような流れだったそうです。

このとき、ご自身は「手術はしない」と決めておられましたが、すぐに手術をしないと腸閉塞になってしまうことと、ご家族の強い要望により、手術に踏み切ったそうです。
その際、ご家族がこの病気に関する名医を探してくれて、信頼できる先生にも巡り会うことができました。

2016年11月15日、6時間に及ぶ腹腔鏡手術を終えられました。
大腸がんについては切除に成功したそうですが、肝臓への転移については手術をせず、抗がん剤で経過観察することに決まりました。

2017年2月7日、ご自身のブログでがんを公表されました。
その際、「今まで通りに普通に接して欲しい」と要望し、「治療は続けるが、今まで通りに生活をする」という姿勢を強調されました。

治療中も野球解説の仕事や、ドリーム・ベースボールのイベントで、子どもたちに野球の指導をしたり、親善試合をしたりと、精力的に活動されました。
大島さんは、とにかく仕事が大好きな方で、「仕事が生きがいだ」と仰います。

また、小林麻央さんのブログには、ご家族みんなが励まされたそうで、麻央さんとメッセージで交流ができたことを大変、喜ばれたそうです。

大島さんは、著書『がんでも人生フルスイング「中高年ガン」と共に生きる”患者と家族”の教科書』の中で、「がんは悪さをしなければ体の中にいてもらっても構わない」と仰っています。
油断はしないけれども、「がんに対して過剰に攻撃的になることは控えよう」という、「がんと共存する」という持論です。
もちろん、「がんの根治を求める」という考え方もありますので、どちらが正解なのかは分かりません。
大島さんは「がんと共存の道」を選択されました。

「何年生きるか」より「どのように生きるか(生きたか)」を大事にされ、「病気と向き合いながら、行けるところまで行こう」というその生き様に、たくさんのことを学ばせていただきました。


仏教の根本は、「老・病・死は避けられない苦しみである」ということです。
もちろん、好き好んでそれを望む人はいないと思いますが、老・病・死は誰の身にも必ずやってくる事実です。
その事実を受け止めきれず、生にばかり固執してしまうことが私たちの迷いなのです。

大島さんは、2016年に突然、がんを告知され、がん患者となられました。
しかし、大島さんはそのことをしっかり受け止められ、「とにかく普段通りの生活がしたい」という姿勢を貫かれました。

もちろん、その考えに至るまでには、大切なご家族をはじめ、たくさんの人との良縁があったことと思います。
また、大島さんは早くにお父様、お母様、お兄様との別れを経験されており、そのときの悲しみが大きな導きになったのかもしれません。

親鸞聖人は、29歳のとき六角堂での参籠を経て、法然上人のもとを訪ねられますが、そのときの課題が「生死いづべき道」であったそうです。
つまり、「死んだらどうなるのか」という答えの出ない問いが、生きる上での大きな不安としてのしかかっていたのだと思います。
その人生における根本問題を解決することが仏教なのです。

そのとき、法然上人からいただいた言葉が、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」『歎異抄』という一言であり、この一言が親鸞聖人の人生を決定づける大きな言葉となったのです。

生きている以上、罪を造ることしかできない「地獄一定」の悪人を、阿弥陀さまは決して見捨てることなく、必ず救ってくださるということです。
この阿弥陀さまの大悲のお心に触れたとき、親鸞聖人の中の「自分の力で問題を解決するんだ」という自力への執着心がひるがえったのです。
その後に、親鸞聖人は「念仏して地獄に堕ちたりとも、 さらに後悔すべからず候」とまで言い切っておられます。

また、大谷派の清沢満之先生は、「生のみが我等にあらず。死もまた我等なり」と、教えてくださっています。
いのちというものは、生のみがあるわけではなく、必ず死があります。つまり、いのちは生と死を並有するものです。
しかし、私たちは生のみを良しとし、死を「まだ先のこと」として遠ざけたり、「考えたくないもの」として目を背けてしまいます。

自分の死を必ずやってくる事実として受け止めることにおいて、死によって「すべてが無意味だった」とならないような人生の意義が見えてくるのでありましょう。

合掌
2021. 9.13 掲載


仏の願いは そのまま
私の願いは わがまま   
帰雲 真智

真宗教団連合発行「法語カレンダー」平成18年(2006)6月に掲載された大谷派の帰雲真智先生の言葉です。

人間は誰もが自分なりの願いを持って生きています。「健康で長生きしたい」「仕事で成功したい」「試験に合格したい」など様々です。自分なりに目標を持って、目標に向かって進むことはとても大事なことですが、もしも自分の思いにかなわなかったとき、人間は怒りや悲しみなど、大きな苦しみを味わうのではないでしょうか。

願いというは「私的な願い」と「公的な願い」の二つに分けられます。

「私的な願い」というのは、「自分さえよければいい」という自己中心的な願いです。
仏教ではこれを我執(がしゅう)、すなわち自己に対する執着心として苦しみの原因と考えます。
その我執(がしゅう)を簡単な言葉で表現されたのが、「わがまま」ということでしょう。
子ども同士のおもちゃの取り合いなどを見ても分かるように、「わがまま」と「わがまま」がぶつかれば必ず喧嘩になります。
喧嘩は相手を傷つけることはもちろんのこと、自らも傷ついていく行為です。
その結果、私たちは孤独になっていくのでありましょう。

もう一つの「公的な願い」というのは、「みんなが平等であれ。そして、それぞれが自分の色に輝け」という阿弥陀さまの願いであります。人間は比較することが大好きな生き物ですから、誰かと比べて一喜一憂したり、争いの種を見つけては誰かを攻撃したり、貶めていきます。人間が人間を見る眼は、容姿や職種、年収、学歴など、「違い」にしか目がいきません。しかし、阿弥陀さまが人間を見る眼は、「みんな煩悩(ぼんのう)を抱えた凡夫(ぼんぶ)」、簡単に言いますと、「みんなわがまま」ということです。ですから、阿弥陀さまはこのような私たちの姿を憐れまれ、どうか「公的な願い」に目覚めて欲しいと私たちを願い続けてくださるのです。

親鸞聖人は凡夫(ぼんぶ)について、

「凡夫」というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり・はらたち・そねみ・ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり。『一念多念文意』

と仰っており、私たちは決して「私的な願い」をやめることはできませんし、阿弥陀さまも私たちに「私的な願い」をやめるように要求しているわけではありません。

「どのようなあり方をしている人間も必ず救い取る」という無条件の救いが阿弥陀さまの願いですから、仏の願いは「そのまま」なのです。

ただし、阿弥陀さまは「私的な願い」を決して容認もされていません。「私的な願い」を罪なこととして嫌っておられます。

大事なことは、私たちが阿弥陀さまの願い「公的な願い」に触れることで、私たちが「私的な願い」ばかりに振り回されていることを知らされ、そのようなわが身を痛むことです。

わが身を痛むことにおいて、初めて、他の人を自分と同じ「仏に願われた存在」、「本当の友」として敬うことができ、初めて、他の人の痛みに心が開かれていくのではないでしょうか。

「私的な願い」に対する自覚も、「公的な願い」に対する目覚めも、両方ともが阿弥陀さまによって教えられることなのです。

合掌
2021. 6.14 掲載


一人居て喜ばは二人と思うべし
二人居て喜ばは三人と思うべし
その一人は親鸞なり
      『御臨末の御書』

親鸞聖人は1262年11月28日、数えの90歳で往生を遂げられましたが、この言葉は親鸞聖人のご遺言と伝わる書物の言葉です。
おそらく親鸞聖人が自分との別れを惜しむ家族や門弟に向けた言葉だと推測されますが、「離れていてもあなたは一人ではないよ。この親鸞が一緒にいるよ」という、とても心強いものを感じます。

「出会いの数だけ別れがある」というのが、この世の中のあり方です。ずっと一緒にいたいと思っても、いつかは別れがあります。
しかし、大切な人と過ごした思い出や、大切な人からいただいたご恩は、たとえ離れていても私の中にちゃんと生き続けています。

4月は新年度の始まりでもあり、学校や職場などで環境が大きく変わった方も多いと思います。そして、ゴールデンウィーク明けは「5月病」という言葉があるように、なかなか新しい環境に馴染めず、憂鬱な日々を送られている方もおられるでしょう。

そんなときは、この言葉を思い出してみてください。

辛いとき、悲しいとき、人からどんな評価を受けようとも、阿弥陀さまは、あなたを信じ、あなたを支えてくださっています。
そして、親鸞聖人をはじめ、お念仏の教えに生きた数限りない浄土の先輩方もあなたを励ましてくださっています。
今、「南無阿弥陀仏」のお念仏のもと、この言葉にそっと思いを馳せてみませんか。

合掌
2021. 5. 4 掲載